※インターネットの性質上、縦書きだった構成を
横書きに置き換えております。ご了承ください。
◎短期連載 武専柔道が講道館柔道に勝つ
怪物ヘーシンクを育てた男
武専柔道の コンデ・コマ
道 上 伯 物 語 (上)
文 今田柔全
 
日本柔道、日本武道の一大転機、それ
が東京オリンピックの柔道無差別級決
勝戦、アントン・ヘーシンクに袈裟固
めで神永昭夫が破れた一瞬ではないだ
ろうか。そのヘーシンクを育てた名伯
楽こそ、今もフランスで活躍する武専
出身の柔道家道上伯氏なのである。ヨ
ーロッパが日本に、そして武専柔道が
講道館柔道に勝った一瞬である。これ
は波乱万丈現在進行形、昭和、平成の
コンデ・コマ道上伯氏の物語である。
●《柔道》から《JUDO》へ ●
 
 昨一九九五年九月二十八日。
 柔道世界選手権が千葉・幕張で開催された。日本
開催はじつに三十七年ぶりだった。
 しかし、初日にして決勝まで残った日本選手は男
女四階級で一人もいなかった。期待の小川も九十五
キロ超級で銅に甘んじるというスタートだった。
 そして最終日を終え、男子の金は八階級のうち二、
女子は八階級のうち一という過去最低の結果に終わ
った。
 一方、場外の争い、二十六日の国際柔道連盟(I
JF)会長選挙でも本家は韓国の朴容晟に敗れた。
 その時、一人のIOC委員がこのように語った。
一九六四年の東京オリンピックで優勝したオランダ
のヘーシンクだった。
「朴IJF新会長と協力して柔道着カラー化に本腰
を入れたい」
 本家日本の≪柔道≫は、オリンピックという桧舞
台でヘーシンクが優勝したことによって世界の≪ジ
ュウドー≫に飛躍した。そして今、ヘーシンクは柔
道着カラー化という変革に乗り出そうとしている。
 日本としてはあくまで白の柔道着にこだわりたい
ところである。しかし、ヨーロッパの潮流は本家の
柔道をも覆おうとしている。柔道着カラー化は≪柔
道≫が≪JUDO≫へと変貌する証しではないだろ
うか?
 
● ヘーシンクを育てた男 ●
 
 柔道国際化の象徴的存在であるオランダのアント
ン・ヘーシンクだが、このヘーシンクを育てた男の
ことは案外知られていない。
 その男の名は道上伯(みちがみはく)という。
 筆者はここ数年の間にテレビでヘーシンク特集を
二度ばかり見た。しかし、いずれにも道上伯の名は
出て来なかった。
 道上は東京オリンピック開幕の八ヶ月前「文芸春
秋」誌に≪講道館柔道への爆弾宣言≫という手記を
発表した。その中で道上は東京オリンピックでヘー
シンクが優勝すると宣言したのだ。
 それ以来、道上はマスメディアに載ることを拒否
し続けてきた。
 もともと売名行為が嫌いだった道上であり≪講道
館柔道への爆弾宣言≫以前にもマスメディアに載る
ことはほとんどなかった。
 先のヘーシンク特集にしても道上が登場しないだ
けでなく、ヘーシンク育ての親が別の人間であるか
のような印象を与えていた。
「真実というのは、いずれ皆に知れること」
と、道上本人は意に介さない。
 しかし、真実もきちんと語り継いでいかなければ
消え失せてしまう。コンデ・コマこと前田光世とい
う傑物がいたのもグレイシー柔術がU大会で優勝す
るまで、現代人には忘れ去られていたのと同じであ
る。
 真実が消えてしまうどころか、誤ったまま伝えら
れてしまう場合すらある。
 今回、長年に渡る筆者の要請に≪講道館柔道への
爆弾宣言≫以来初めて道上が取材に応じてくれた。
 今年一九九六年、アトランタ・オリンピックの年
に、この男のことを書き記しておくことは意義ある
ことだと思う。
 
● 前田光世のようになりたい ●
 
 道上伯は一九一二(大正元)年十月二十一日、道
上安太郎の次男として愛媛県八幡浜市に生まれた。
八幡浜市は漁業で栄えた町だ。
 八幡浜市といえば武道を語るとき時折登場してく
る聞き覚えある町ではなかろうか?
 そうあの芦原空手発祥の地として少年マガジン
『空手バカ一代』で知名度が高まった町といえば思
い出す人も多いだろう。
 その弟子で極真空手全日本チャンピオンになった
二宮城光(現円心会館)出生の地でもある。
この記事は日本柔道界に衝撃を与えた