極端な縦社会の武専で、厳しい稽古と、それ以上に厳しい伝統尊重主義のため、多くの脱落者が出る中、 道上は度々主将を務め、遠征試合で常勝する。
この武専での4年間で、柔道理論、骨格学、衛生学、生理学の他、法律学、教育学、心理学、古文、 中国哲学(儒教)などを習得し、柔道教授の免状を獲得したのである。
卒業後は武専校長の要請で旧制高知高校へ赴任。
高知県の柔道チームキャプテンや国体の高知代表も務め、 その名を轟かせたが、二年後、上海東亜同文書院大学教授となり、1940年、
結婚したばかりの妻を連れて、上海へ渡った。
上海で多くの弟子、学生を指導し、その強さの評判から外国人の対戦要請を受けることも多々あったが、 常に圧倒的な勝利を見せ、その名声を高めていた。
上海時代も帰国の折りには東西対抗試合などで度々優勝。
1941年には昭和天皇任命による教師号を授与され、段位も六段を取得している。
第二時世界大戦による混乱で、同文書院大学も学生が日本から渡って来られず、1945年の夏、
道上は日本で指導するために帰国。
直後に終戦を迎える事になった。
数年は生まれ故郷八幡での生活を余儀なくされたが、1948年には柔道師範としての指導を再開。 1951年には七段を授与されている。
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