道上伯はフランスのボルドーに在住し、八十九才まで指導、稽古を続けていた。

道上は1912年、愛媛県八幡浜に生まれ、少年時代より万能選手として相撲、剣道、空手など様々な競技で群を抜いていた。
中でも柔道は、中学生にして三段獲得と言う異例の速さで昇段し、当時の愛媛県地方で、度々話題を呼ぶほどであった。

 

大学は立命館大学に入学。

一年後、予てより師からも強力に勧めのあった大日本武道専門学校、 即ち、日本における唯一の武道専門学校である京都武専に入学している。
(中学2年において、武専生2年キャプテンを試合で打ち負かしている。)

武専の一学年は20名。

500余名の受験者の内、道上は学科2番、実技1番で合格した。

若き頃の道上伯氏
 
極端な縦社会の武専で、厳しい稽古と、それ以上に厳しい伝統尊重主義のため、多くの脱落者が出る中、 道上は度々主将を務め、遠征試合で常勝する。

この武専での4年間で、柔道理論、骨格学、衛生学、生理学の他、法律学、教育学、心理学、古文、 中国哲学(儒教)などを習得し、柔道教授の免状を獲得したのである。

卒業後は武専校長の要請で旧制高知高校へ赴任。
高知県の柔道チームキャプテンや国体の高知代表も務め、 その名を轟かせたが、二年後、上海東亜同文書院大学教授となり、1940年、 結婚したばかりの妻を連れて、上海へ渡った。

上海で多くの弟子、学生を指導し、その強さの評判から外国人の対戦要請を受けることも多々あったが、 常に圧倒的な勝利を見せ、その名声を高めていた。

上海時代も帰国の折りには東西対抗試合などで度々優勝。
1941年には昭和天皇任命による教師号を授与され、段位も六段を取得
している。

第二時世界大戦による混乱で、同文書院大学も学生が日本から渡って来られず、1945年の夏、 道上は日本で指導するために帰国。

直後に終戦を迎える
事になった。
数年は生まれ故郷八幡での生活を余儀なくされたが、1948年には柔道師範としての指導を再開。 1951年には七段を授与されている。

 
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