■一旦は希望したが、その後帰国する事なく指導を続け、 1954年にはチェニジア・アルジェリア・モロッコでも技術最高顧問を務めることとなる。

1955年にフランスで指導を受けていたオランダチームからの強い要請でオランダ柔道チームの指導を開始。
以後1968年までの13年間、オランダ柔道協会の最高技術顧問を務め1972年までオランダ柔道講師の最高技術顧問となったのである。

そして、オランダ柔道界の振興のために強化選手として指導したのが、アントン・ヘーシンクであった。

 
アントン・ヘーシンク選手と伯氏
 
家庭も貧しく、オランダ柔道界において充分な指導に恵まれていたとは言えない彼を道上は鍛えぬき、
ヘーシンクは1961年の世界大会で優勝、64年の東京オリンピックで金メダルを獲得する。
 

■その後もフランス有段者の最高技術顧問(1956年)を始めとして、モロッコ柔道連盟の最高技術顧問(1956ー8年)マルガッシュ国最高技術顧問(1959年)を務め、ヨーロッパ、アフリカ全土で精力的に指導を展開し続けた。

日本の外での柔道の発展に尽力しつつ、彼が日本柔道界の変化に戸惑い、憂慮していたことも事実である。

1955年に彼が「文芸春秋」に寄稿した、日本柔道界への忠告は、取りも直さず、 自分自身の柔道が失われることを危惧してのことであった。

 
●講道館柔道への爆弾宣言
「文芸春秋」に寄稿した手記のタイトル。

道上としては、このままでは日本の柔道が危ういと警鐘し、また奮起して欲しいとの思いで記したものだったが、残念ながらその声は届かなかった。
 

言うまでも無く、日本柔道は競技としてのJUDOに勝利することのために、柔道を武道から遠ざけていってしまった。
その歩みは、道上の海外での柔道指導の歴史と、平行して定着してきた。

道上にとっての柔道は心であり、日本国外にあっても、常にその指導は精神的な物を抜きにしてはいない。
オリンピックでのヘーシンクが、非の打ち所のない東洋的礼儀作法を自然に行い、勝利の瞬間沸き上がるオランダチームを制止し、 皇太子殿下ご夫妻の方へ向き直り深々と敬礼した姿にそれを知ることができる。

 
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